立春に行われる日本の伝統行事 節分
2006. 2

  二月三日 日本のいたるところで節分の行事が祝われた。“鬼は外! 福は内! 皆さんはこの叫び声を近所のうちから聞いたり、テレビですもうの横綱や、映画のスターたちが神社やお寺で豆まきしている様子を目にしたのでは? ところで、節分の豆まきの行事はどのように始まったのだろうか。
  「節分」はその名の示すとおり、季節のわかれめであって、本来は年に四回あったが、すべての物事の始まりを暗示する春を一年の始まりとして位置付け、立春の前日の節分に年越しの行事を執り行うようになった。そして「節分」といえばこの日のみをさすように定着したのである。
 季節の変わり目は、邪気・悪霊が忍び込みやすく、災いが生じやすいと考えた人々はこれを免れたいと願い、「物忌み」として静かに部屋にこもって災いの過ぎ去るのをまち、あるいは軒先にいわしの頭やヒイラギの葉をかざって災いがその家にはいらないためのおまじないをした。706年、諸国に疫病が流行したとき、これを追い払おうとして行事がとりおこなわれた。疫病という災いを象徴する鬼に扮した人々を、殿上人たちが宮廷の四つの門に向かって追いかけ回すというもので、これが節分の行事として現在に伝えられている「豆まき」のはじまりであろうとされている。これが12- 13世紀に神社やお寺で行事化し、17世紀には民間でも行われるようになったということである。しかしながら、その祝い方は夫々の家や、住む地域によって異なる。 鬼を守護神とする神社もあって、そのようなところでは豆まきの口上も、「福は内、カミは内」となったりしている。
一般には、撒かれた豆を拾って自分の年齢の数だけ食べると次ぎの一年息災であるとの信仰が全国的に流布している。また、関西地方では、「恵方巻」と」呼ばれる寿司を、新年の神様が来られる方角に向かって、願い事を念じつつ食べるという風習も伝えられている。
 最近では、節分の行事は社寺などで盛んであるが、都市部の一般家庭では衰退してきたようだ。
 2月3日、市内の諏訪神社(750年前建立)を訪ねてみた。 近辺の沢山の小さな子供たちや、その母親たち、祖父母たちが 太い丸太を燃やした焚き火で暖を取りながら豆まきの始まるのを待っていた。 午後3時頃、本殿でお払いをすませた裃姿の12人の男性が回廊にでてきて、境内に集まった参拝者たちに向かって、“鬼は外! 福は内!の掛け声とともに小袋の豆菓子やもちがまかれた。 もっと多くの人々が参加できるよう、二回目の豆まきは午後6時におこなわれるとのことであった。

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