ひょうたんグループ提供


古墳時代から奈良時代
 古代の日立市周辺の状態は数千年前の縄文時代、弥生時代の土器が市内から出土しており、その当時からいくつかの集落に分かれて住民がいたことが想像される。 5世紀ごろになると久慈川、十王川流域に多くの古墳が残されており、その規模からやや強力な豪族がいたことを示している。
 この頃、奈良時代から東北地方への街道の一部としての役割を果たしていたと思われる。南北に村々縦断する道は松並木で整備され宿場町でもあった。これらの松の一部は1950年代まで見ることができたが、道路の拡幅などで現在は全く見ることができない。


甕の原前方後円墳

徳川幕府末まで
 
 12世紀頃からこの周辺は佐竹氏の勢力範囲となり、400年以上続いたが、1600年に徳川幕府により秋田に移された。それ以降、250余年間水戸徳川家が統治した。19世紀(1836)水戸徳川家により海外諸国の襲来に対応するため日立市に助川城が構築され、海岸地帯には砲台が設置された。これらの施設は実際に海外からの敵に対戦する機会がなかったが、水戸藩内部の抗争により焼失した(1864)。


城南町付近
千葉忠也氏撮影


明治維新以後
 明治維新以後は周辺の村々の合併を繰り返し、1939年には日立市が誕生した。
 1897年に現在のJR常磐線が開通した。
 日立市の工業都市としての基礎になった銅鉱山は19世紀後半に本格的採掘が始まり、1905年に久原房之助氏が買収し、近代的な大規模銅鉱山として日立鉱山を創業し、日本国内有数の鉱山に育て上げた。
 日立製作所は日立鉱山創業の5年後に、鉱山の電機機械修理部門を担当していた小平浪平氏が独立、創業した。
 当初は日立鉱山の精錬所から排出される有毒ガスによる公害が激しく、周辺の樹木を枯れさせた。種々の対策が試みられ最終的には当時世界一の高さの大煙突による有毒ガスの拡散と公害に強い品種の植林で解決した。
 これらの会社は日本の近代化の波に乗りそれぞれ大きく成長し日本の基幹産業となった。第2次大戦には当時軍需品を生産していたため、工場群および市街地は空襲と軍艦からの砲撃により壊滅状態になった。  
上の写真は1980年代の日立鉱山

 


1940年代の日立市街
日立郷土博物館提供

1940年代の日立市街
日立郷土博物館提供

爆撃を受けている日立市
日立郷土博物館提供

戦災直後の日立市街
日立電線株式会社提供

第2次世界大戦以後

 1950年代になり工場群の急速な復旧が進み、それにあわせて市街地も整理をされ現在の区画の基本が出来上がった。
 銅鉱山は徐々に資源が枯渇し、1981年に閉山になった。それに伴い、日立駅周辺にあった鉱石や精錬製品の輸送設備のあった広大な土地が不要となり、その跡地を利用して近代的な公共、商業施設を集中的に建設し、新しい日立市街の中心となり現在に至った。市内の復興に際し桜を積極的に植樹したため現在はいたるところで美しい桜を見ることができる。1990年に「日本の桜の名所100選にも選ばれた。


平和通り (1951)
日立郷土博物館提供


現在の平和通り


神峰公園からの展望


日立駅前パティオ

日本語のトップページ)   (home)

inserted by FC2 system